旅行して、民宿に毛が生えたような小さな旅館に泊まった。
さっそくお風呂にいったのだが、そんな宿だから当然浴場も小さい。ざっと体を流して湯船につかっていると、賑やかな話し声が聞こえて、母とその娘とおぼしき二人が入ってきた。なまりのない言葉、名古屋であれば気取っているともとられかねない話し方から、二人は関東のおそらくは東京あたりのややお金持ち、と察せられた。
なかなか美しいお母さんで、中年ではあるがオバハンでは決してない。生活感も乏しく、しいて言えば家庭画報に出てくるミセスのようだった。しばし見とれていたが、なにやら違和感を感じた。私は違和感の原因をさぐるべく、お母さんを観察した。わかった。美人なのに、しかもお澄ましなのに薄汚いのである。娘のほうは二十歳前ぐらい。その年頃特有のパンパンに張った体つき(おデブのことね?)で、目鼻立ちは母親にまったく似ていない。母娘は三つしかないシャワーの前に陣取って体を流し始めた。ガシャン、カタンと大きな音を立てる娘の所作にも、私は「ん?」と思った。
そのとき風呂場の引き戸が弱々しくあき、銀髪のおばあさんがよたよたと入ってきた。おばあさんは母娘に満面の笑顔を見せ、湯船の私には微笑みながら会釈をした。
「あら、お母様、ずいぶんお時間がかかったのね」と母親(以下、嫁と記す)。
「おばあちゃんはウスノロだもんね」と娘(以下、孫娘と記す)。私は孫娘の言い放ったウスノロという言葉に目が点になった。さあ、どう出るバアチャン! 私は固唾を飲んだ。
しかしバアチャンは受けたであろう衝撃や悲しみをチラリとも見せず、
「どうもね、何をするにも時間がかかるようになってしまったの」
と言いながら、先ほどと同じ満面の笑顔を見せるのだった。嫁は知らんぷりである。
雰囲気から、これは同居家族ではないと確信。続く会話で、離れて暮らすバアチャンを親孝行旅行に連れてきたというシチュエーションであることが分かった。
風呂場に入ったバアチャンは洗い場の小さなイスに腰を下ろそうとするのだが、つかまる物がないのでオロオロしだした。その様子をチラリと見た嫁は
「◎子ちゃん、お手伝いしてさしあげて」
と上品に指示。ちなみに三人の位置関係は奥から孫娘、嫁、バアチャンの順である。嫁、お前が支えてやらんかと心で突っ込みを入れるも、ここは静観。ヨッコイショと立ち上がった孫娘は、のしのしとバアチャンに近づき、背後に回ると自分の手のひらをペタンとバアチャンの背中に張り付け、「はい、座って!」。
座れと言われても、手のひらペッタンだけの支えで、バアチャンがスクワット体制に入れるか? 湯船にとっぷりつかりながら観察を続けているので、私は汗をダラダラかきはじめた。そして軽い怒りもフツフツ。ああ、バアチャンはどうするだろう……。
バアチャンは「ああ、ありがとう、ありがとう」と、さも大助かりみたいな言葉を並べながら、足を踏ん張り、温泉成分のヌルヌルと戦いながら、自力で徐々に腰を下ろし始めた。
ありがたいわけはないのだが、バアチャンはきっと大昔に覚悟を決めているのだ。そして他人から見ればビックリするような待遇も、バアチャンにとっては慣れっこなのだろう。(事ヲ荒立テテハイケナイ、笑顔デノリキルンダ)というバアチャンの悲壮な決意が伝わってくるような踏ん張り、そしてなお絶やさぬ笑顔。しかしイスまであと10センチぐらいのところでバアチャンは力尽き、ストンと尻餅をつくかたちになったが、わずか10センチはバアチャンに深刻な事態を招くようなことはなかった。
「ずいぶん埃っぽかったから、石鹸で顔を洗ったほうがいいわねぇ」
と、バアチャンは嫁に話しかけた。
「そうですわね、そのほうがおよろしいですわ」
洗い場には同じ形の容器にボディシャンプーとシャンプー・リンスが並んでいる。バアチャンは屈み込みながら一つ一つを吟味するのだが、どれを使っていいのか判じかねる様子だった。
「どれで洗うのかしら…」
と弱々しく訊ねるバアチャンに、
「書いてありますでしょ?」
と、嫁。
「それがね、読めないのよ、字が小さくて」
しかしながら、バアチャンの困惑はシカトされた。もはや茹蛸状態になった私は湯船から飛び出して教えてあげたい衝動に駆られたが、そんなことしたら事態はもっとややこしくなると、我慢した。
シカトされたバアチャンは仕方なく手前のボトルをプッシュし、そこからドロリと流れ出た液体で顔を洗い始めた。と、その途端けたたましい笑いが起こり、
「アハハハ、おばあちゃまったら、シャンプーで顔洗ってる!」
と、嫁あらため鬼嫁。すると孫娘あらため豚娘も体をよじって笑い、自分のお風呂セットから洗顔フォームを取り出し、
「お顔は洗顔で洗うんですよ〜」
といいながら、頭の上でヒラヒラさせた。
母娘二人の哄笑はしつこいほど続き、その中でバアチャンはまたもや例の満面の笑顔を作りながら、耐えているのだった。
私はいたたまれなくなった。もうこの場から離れたいと思ったが、まだ髪が洗ってない。シャワーは三つしかないから、待つことにした。程なく豚娘が湯船に入ってきたので、入れ替わりに出ようと思ったところに
「おばあちゃま、髪もお洗いになったら? 私、お手伝いしますわ」
と鬼嫁。私は観察を続行することにした。
鬼嫁の「お手伝い」とは、バアチャンの頭にシャワーを浴びせることだった。そして「後ろまで手が回らないのよ」というバアチャンの「お願い」に応えて、後頭部をワシワシすることだった。しかし、途中で豚娘が話しかけてきたので、鬼嫁は横を向きながらその作業をすることになってしまった。そして話に夢中になった鬼嫁は、恐らく自分が今何をしているのか忘れてしまったのだろう、ずっとずっとシャワーをかけ続け、同じ箇所をずっとずっと擦り続けたのだ。
もう我慢できない、バアチャンがアプアプしてるよと注意しようとした途端、
「ありがとう、本当にありがとう、もう十分にサッパリしたからありがとう」
とバアチャンがあえぎながら訴えたので、「お手伝い」はようやく終わった。
もう髪はいいや、出よう。私は浴室を出た。
脱衣場。浴衣も脱いだパンツもくしゃくしゃに丸めてこんもりした籠が二つ、きちんとたたんで整然とした籠がひとつ。
それらを目にして、私はやるせないため息がもれた。
ここのお父さん、嫁と娘の実態を知ってるかなァ……。
皆様、どう思われます?
( J 記)
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